2017年5月3日水曜日

相手の攻撃をかわす能力こそ

合気道をはじめとする型武道において最も問題なのは,相手の攻撃をかわすことであると最近思っている.空手のような打撃系の武道であったとしても,相手の攻撃をかわすことは難しい(だから相手の突きや蹴りがあたることになる).しかし,空手では稽古の中で攻撃をかわすことは普通のこととして練習するから,それなりのかわし方(受け方)を身につけることになる.しかし,合気道のように約束された攻撃しかしない稽古を中心に行っていると,相手の攻撃を待つときにスキだらけになるだけでなく,相手の攻撃をかわすことができない人が多くなる.これは仕方がないことである.

合気道のように技をかけること自体が難しい武道では,その技を中心に練習することが当たり前となる.たとえばポピュラーな「小手返し」という技でも,相手の小手を持てたとしても相手を投げることはなかなかに難しい.だから相手の小手を持ったところから技を練習することも多くなる.一方で,相手の攻撃をかわす練習は少なくなってしまうのである.練習していないことができないのは仕方がないのである.

しかし,たとえ小手を持って技を完璧にかけることができるようになったとしても,その前に殴られたり蹴られたりしたら終わりなのである.もちろん身体が丈夫であれば多少相手の突き蹴りがあたったとしても倒れることはないかもしれない.しかし,相手がナイフなどを持っていたとしたら,身体が丈夫だといってもあまり役に立たないのである.

では空手ならば大丈夫なのかといわれてもそれも難しいように思える.たとえ一撃で人を倒すことができる突きを身につけたとしても,それを相手に当てる前に殴られてしまったら終わりなのである.結局,相手の攻撃をかわす能力がなければ,自分がどんなに強力な攻撃力をもっていたとしても,その力は無駄になるのである(もちろん,「先手必勝」で先に攻撃することもあるけれど,それはそれでいろいろと問題が起こる).

では合気道や他の型武道においても,自由組手のような稽古を中心としてやるべきかという話になるけれど,私はそれもちょっと違うと思う.自由組手のような稽古を中心に行うと,精妙な技術を身につける前に,一定の間合いでドツキ合いになることが多くなって,結局力とスピードの体力勝負の技術ばかりが身についてしまい,その先に進みづらくなるのではないだろうか.せっかく精妙な技術が伝承されてきたのに,力とスピードの世界にまた後戻りになるのであればもったいない.年齢とともに弱くなっていくのであれば,それは武術と言えるのだろうかと思う.

ではどうすればいいのか.それは私もまだ解決できないけれど,剣豪 寺田宗有のように型稽古の中でもその技術は研鑽できると信じて稽古するしかない.でもそうでなければ武道を稽古する意味がないのではないかと思う.

#もちろんできる人はできます

0 件のコメント:

コメントを投稿

言葉が世界を単純化することの副作用

 人間がこれだけの文明を持つに至った理由のひとつは「言葉」を用いることであることは間違いないと思う。「言葉」があれば正確なコミュニケーションができるし、それを表す文字があれば知識を記録として残すことも可能である。また言葉を使えば現実世界には存在しない抽象的な概念(たとえば「民主主...